変わらないじゃないか

カーヴァ―の短編でキャンプに行った初日女性の死体を川で見つけたという話がある

男たちは関わると休暇が台無しになるからと予定通りの日程を過ごした

死んだ人は生き返らないし休暇を楽しみに日々を過ごしていたのだから

 

タレントがテレビで幼少期いかに家庭が貧乏であったかという話をする

不断の努力で人気者になり金を稼ぎ豪邸を建て高級車を乗り回す

昇りつめて下を向いて見えるものは

 

兵器を売り原発を売り利益を上げ血を流させ虐殺が行われる

力があればお金があれば弱きものを犠牲にしたところで何が悪い

選ばれた自分たちが豊かになるのならそれは正しいそれが正義

 

川に浮かぶ女性が自分だったら

人気者になったのが自分だったら

正義の側にいるのが自分だったら

 

 

 

 

 

猫背

 白い車の黒髪の背の高い女性と小さな男の子

 狭い店の中をあっちへこっちへ

 いろんなものを触る

 たくさんしゃべる

 言葉が次から次に出るのだろう

 その男の子の名前をさん付けで呼ぶ女性

 すみません

 すみません

 なんども頭も下げながら男の子の手を強く握っている

 放すと無くなってしまうかのように強く

 すみませんと言って会計を済ませ店を出る

 車に戻りチャイルドシートに乗るのを嫌がる男の子

 その風景が低い窓から見える

 

 月に一度何年も何年も続く風景

 

 昨日ふたりがやってきた

 こんにちは

 すこし大きくなった男の子が挨拶をする

 行儀よく椅子に座る

 女の人が買い物をする間じっと座っている

 膝と膝をきちんと合わせて

 会計をすませると男の子は紙袋を持ってさようならと言ってドアのほうへ

 上気した桃色の頬で胸をはる男の子

 すみませんと一度も言わなかった女性

 すこし猫背気味

 口元を強く結んだ横顔はいつもより下を向いていた

 ような気がした

 

オリジナリティについて

 「美味しかったから思わず電話してしまいました」と先日電話があった。このように一文に同じ単語(電話)が2回出るのはダメな文章らしいです。気をつけましょう。

 って、そんなことはどうでもいいし、自分のコーヒーを自慢しているわけでもない。

使用しているコーヒー豆が他と違うんですか?

焙煎の仕方が違うんですか?

などなだ、いろんなことを聞かれたのだけれど、何ひとつとして良い返答が出来なかった。

 だって、普通のコーヒー豆を普通の焙煎機で普通に焙煎しているだけだもんな。

 

 昨夜YouTubeでジョーストラマーがルーリードの曲を演奏しているのを聴いていて思った。オリジナリティっていうのはただの個性だって。ジョーはクラッシュ風に演奏するのではなく、まんまルーリードの原曲どおりのアレンジで演奏していた。だからこそ、ジョーストラマーの曲になっていた。

 ブルーススプリングスティーンがプリンスの曲を演奏しているのを見ても同じように思った。

 

 個性的でなければいけない、そういう呪いにかけられている。とくに店をはじめるときに。ほんとにそうなのかなあ。まったくそんなこと考えずにはじめたけれど似ている店は全然なかった、って、今もだ。たくさん本も読んだし、いろんなコーヒーも飲んだ。だけど、結局は自分の持っている技術と資金で出来ることしかできないんだ。

 何をやりたいではなく、何が出来るか。その連続で15年続いた。その結果が今の形というだけのこと。だから5年後10年後はまた全然違う形になっているのかもしれない。

だって15年前の私がオリジナルのTシャツなんか作ったと知ったら侮蔑の眼差しを向けるのは間違いないもんな。

 

 無理して設定しても疲れるだけだし、見抜かれるし。結局は好きじゃないとね、そう愛だよ、愛。って全然オリジナリティのないこと言ってんなあオレ(笑

あっ、(笑 は使っちゃい文章うまくなんないらしいですよ。

あっ、ってわざとらしく今気づきましたってのもダメみたいです(笑

 

 オリジナリティはアイデアではないんだ。

だから考えてもダメだ。愛だよ、愛。

 

 

ひとつとして良いアドバイスを私は出来ない

 50年も生きていると人から相談を持ち掛けられるときがある。そしてそのたび相談者をがっかりさせてしまう。私は誰かに語るべき言葉など持ち合わせていないのだ。

 実に薄っぺらい人生を送っている。謙遜で言っているわけではなく、気がつくと50年生きていただけの人。失敗ばかりしているし、決断はほぼほぼ間違っている。それでも生きていられるのは運がいいからかもしれない。とはいえ、すごく幸運なことがあったなんてことは一度もない。

 

 先日もコーヒーロースターになりたいという若者の話を聞いていた。会社をやめてコーヒー屋をはじめたいんです。庄野さんの本を読んで希望をもらいました。そうキラキラした目で私に言う。だけど、私が言ったことは、やりたければやればいい。なんだこれだよ。明らかに若者はがっかりしていた。きっと希望にあふれてやってきてくれたのだろう。背中を押してくれると思ったのかもしれない。

 だけど、私は誰かの背中を押すことはしない。

 

 みんなに勇気をあたえたい。っていう人を見ると凄いなあと感心する。常にビクビクしながら生きてきた私には考えられない言葉。希望ある未来を!なんていう人もいる。凄いなあ、本当に、嫌みでも皮肉でもなくそう思う。そしてそういう人がいない困る。自分で力を生み出せない人だっているんだ。そう、私もどちらかというとそっち。追い込まれてどうしようもないなってからでないと何もできない性格。負荷が掛からないと動けない。勇気や希望なんて私の辞書には載っていないみたい。

 

 ネガティブなこと書いているように思うんだけど、本当のことだから仕方がない。ブログは正直なことを書こうと決めている。誰かと話したり、きちんとした文章を書こうとすると、捏造する自分がいる。嘘とまでは言わないがニュアンスを変えたり、強弱をつけたりする。そしてそのことを自分は知っているから、あとで落ち込む。

 ブログは自問自答、自分に書いている。書いているうちに、そうか私はこんなこと考えてるんだって思うときもあれば、おいおい、自分に書いているのに捏造しようとしているぞと突っ込んだりしているときもある。

 

 毎日書いていると書くことがないときもある。家と店にしかいない毎日、書くことがあるほうが変だ。そんなときは書くことがないと書く。読んだ本や聴いた音楽のこと、聴いたニュースのことを書く。自分の思っていることを正直に書く。全然違う考え方の人が見るたヤだろうな、なんてことは考えず正直に書く。こんな人がコーヒーを作ってるだって知ってもらうために書く。

 

 正直であることが一番強いと嘘つきな私は知っている。

 

 かなり話が逸れたし、長くなりました。何が言いたいかというとタイトル通り、ひとつとして良いアドバイスを私は出来ない、です。だけど、聞くことは出来る。ひとりで困ったら訪ねてきてください。アドバイスは出来ないけれど雑談は得意です。

中瓶は、いくらが正解なのか?

小瓶2本、もしくは大瓶1本。

昼食時のビールはこうありたい。

だけど中瓶が一番多く置かれている国で暮らしているから、中瓶を頼むことが多い。な何かを食べながらだから2本は多い。だけど1本だとちょっと足りない。

悩ましい思いをいつもしながら結局2本頼んでおなかパンパンで店を出ることになる。来月で51歳、そんに食べられません。

 

それはそうと、中瓶の金額はいくらが正解なのだろうか?

地方都市に住む私が一番目撃するのは500円ー600円の間。とはいえ、これも税込みと米別だと全然違う。それで、あれ、こんなに高かったっけって会計のとき思うことがよくある小市民なわたしく。だったら、最初から税のことも考えていればいいのだけれど、そこはそれ。目に見えたものしか理解できない単細胞。

 

たまに650円とか700円って店に出会うと、おいおいおいとツッコミそうになるけれど、よく考えれば瓶ビールっていうのはシェア出来るんだ。その場合だとひとり300-350円、うーん、これじゃ夜の営業時間だけの店じゃ利益が出ない。たくさんの料理を仕込んで用意し、適正価格で販売している店なら尚更、飲んでもらってなんぼだもんな。

 

コーヒー一杯の値段もかなりの幅がある。

100円で飲めるファーストフード店もあれば、1000円を超えるラウンジもある。コーヒー豆もそう。ブラジルって言ってもかなりのふり幅がある。これにはいろんな理由があるし、それぞれ納得している人たちとの取引でそれらは保たれている。

 

そう、この世に正解はないのだ。

いや、違う、人の数だけ正解があるのだ。

いや、いや、違う。

今の私は600円の中瓶を高いと思わないけれど、20歳の私は勘弁してよーって言ってたはず、自分の中にもたくさんの正解がある。

って、ことはないと同じ、だね、あれ、違う?

 

価格決めは商売するとき一番悩む。コーヒー豆屋になったときなんとなく付けた価格は後から考えると大正解だった(偶然です)。今は今度販売するTシャツの価格で悩んでる。ぼられたって思われるのはイヤだし、あまりに安価だと不安を与えるだろうし。

いやー価格って難しい。

 

お気づきのかたもいらっしゃると思うのですが、このブログは、

自分で作ったものを販売するときと、既製品を販売するときを同列で語っている。

詐欺師の手口ですね、はい。

中瓶はどこで飲んでも同じもの(温度管理とか鮮度とか器とか違うっていうのはわかってます、念のため)。そういうものは市場価格より少し安めに設定すると、それだけでこの店って良心的だなって思ったりするのが人情。

中瓶が450円だったらうれしい。

これなら税込みでも495円、500円でおつりがある(しかも5円で御縁)。

400円なら店がちょっと無理してるような気がする。

450円なら2本飲んでも1000円以内(しつこい)

 

よって、中瓶の正解は450円です。

って、ただの庶民の願望だ(笑

そして、Tシャツを作ることに決めた

 aalto coffeeをはじめたときに決めたことがいくつかある。そのうちのひとつが、オリジナルのマグカップとステッカーとTシャツを作らない(3つあるじゃん!)というもの。15年前、カフェや雑貨店が自店の名前を入れた(しかも大きく!)この3点のグッズを作るのが流行っていた(ように思う)。

 だけど、そこはひねくれもののわたくし、流行りには乗らない、そんな理由でつくらなかった。

 コーヒー豆屋だから、コーヒーの加工品は作らないと嘯いていた手前、グッズは宣伝と収入両面ともの手助けになるから是非とも作りたい、で考えた結果、コーヒー缶やバッグやピンバッチをつくった。

 今でこそポピュラーなコーヒー缶も13年くらい前は中川ワニ珈琲さんの通称ワニ缶くらいしかなかった(大手コーヒー屋さんのロゴの入ったものはいっぱいありました)から、これはオリジナルで作らなきゃと、製作してくれる工場を探し、デザインを佐々木美穂さんに依頼した。とてもいいものが出来た。いろんな雑貨屋さんでも取り扱いいただき、徳島の小さなコーヒーロースターの宣伝に一役も二役も買ってくれた。そして、今もコンスタントに売れ続けている。

 

 コロナウイルスの世界になり自粛自粛、たくさんの人がいろんな方法で収益を上げようとしている。私もいろいろ考えた。考えて考えて、なんにも浮かばなかった。

 いろんなアイデアを得るという名目で(本当はただの暇つぶし)SNSを見ていたところ、自分のアイコンが黒髪のままだったことに気づいた(昨年の10月から金髪にカムバックしているから遅すぎる)。イラストレーションを描いてくれた作家さんに現状の写真を送り新しい絵を描いてもらった。その絵の私が着ているTシャツの胸にaalto coffeeを書いてあった。

 その絵をぼーっと見ていて、なんだかわからないけれど、このTシャツを作らなければならない、そう思ったのだ。

 Tシャツを作りたいのではなく、この絵のTシャツを作らなければならない。

 

  こだわりも信念も無いから、自営業を続けてこれたような気がする。なんとなく作らない方がいい、なんとなくだけど作らなければいけないような気がする。ノーロジックに世界でaalto coffeeは15年間漂ってきた。そして目指すところもないまま、今この場所に立っている.

 

 って、どこだ、ここ(笑

 

 フロイト流に言えば、無意識の意識で判断しているのかもしれないが、それならそれで、いい。ただ、このなんとなく思うこの感じをこれからも大切にしていきたいなと思っている。それが間違いだったり失敗だったりしたところで、どうってことないし。

 鮮度のいいコーヒーをお求めやすい価格で販売する。

 それは絶対譲れないけれど、それ以外は譲りっぱなしでいいや。

 

 そういうわけで、Tシャツ作ります。

 完成したら買ってねー

 

 って、ただの宣伝ブログかよ!

 

 

マンデリン

 そろそろ閉店時刻が近づき今夜は何で喉を開こうかと考えていると重い扉がガタガタし細い西日が差し込んできた。ガタガタ、ガタガタ、ガタ、ガタ、ガ、ガ。音はするが誰も入ってこない。私は立ち上がり扉に向かい、ガタガタしている扉を引っ張った。あっという小さな声。扉の向こうに幼い女の子がひとり立っていた。

 

「おじいちゃんが病気でずっと寝てるの。一度でいいからここのコーヒー屋さんのマスターがいれてくれたコーヒーを飲みたかったって」

「そうなんだ。家は近くなの」

「うん、すぐ、そこ」

「じゃあ、今度の休みの日にコーヒー淹れに行ってあげるよ」

「ほんと?いつ、やすみ?」

「日曜」

「うーん、にちようか。。。」少女は少し俯き考える。

なんだか都合が悪そうだ。祖父のために来てもらいたいけれど、日曜日は具合が悪い。そういうことだろうか。それならば、

「月曜も休みだから月曜に行こうか?」

少女の表情が喜びに溢れた。

 

  予想していたより、いやある意味予想どおりなのか、こんな近くにこんな屋敷があったんだ、門前で屋敷を(見えてないけれど)思い見上げてそんなことを思った。インターホンを鳴らそうかと思うと門が開いた。少女がいた。どうやら待っていてくれたみたい。白く小さく黒い長い髪に丸い眼鏡。くるりと回り歩きだした少女に続いて歩いた。

 がらーんとした玄関。上履きはない。よく磨かれた長い廊下を無言で少女の後を歩く。永遠に続くような気がした。

  少女が襖を開ける。寝床が見えた。小さな山。少女が近づき何か話かける。山が動いた。うつろな目のこれ以上やせ細れない針金よりも細い物体が私に向いた。

 

 誰だ、お前。

 

 はじめて見る人だった。少なくとも店頭でこの老人を見たことはない。そして、この家の人は店に来たことがない。日曜日が休みの仕事をしている両親(もしくは片親)だというのは先日の少女の態度でわかっている。この住所に配送の手配をしたこともない。

 

 ありがと、と、う。

 

 老人が言った。少女はにっこりとした。

お湯を沸かす場所を聞いて台所へ向かう。古い薬缶に水を張りガスコンロを中火にする。時間をかけて湯を沸かす。できるだけ柔らかいお湯になるように。湯が沸くのを待つ間、あらかじめ手持ちしたどのコーヒーを淹れるべきか考えた。酸味のあるコーヒーが好きなのか苦みや重みを好むのか。私の知らないコーヒーを好きな人にどのコーヒーがいいのだろうか。もしかしたら、彼の最後のコーヒーかもしれない。

 

 シュシュ、シュシュ、シュシュ

 

規則正しく湯が沸く音がする。決めた。少女を呼ぶ。

「おじーちゃんが飲んでいたコーヒーってどこにある?」

 

彼女が食器棚の下部に押し込まれていたコーヒーを見つけるのに結構な時間を要した。とはいえ、時間はありあまるほどある。ただコーヒーを淹れ飲んでもらえばいいだけなのだ。そう思い持参した手挽きのミルを手提げから出した。何年振りかに昨夜手入した古いコーヒーミル。

 

 見たこともないコーヒ―袋からコーヒーをミルに入れる。軽く回す。あまり香りは立ち上がらない。いつごろ購入したコーヒーなのだろう。とにかく湯を沸騰さす。世界を煮出すくらいの沸騰。その湯でも膨らまない。できるだけゆっくり、息ができないコーヒーを甦らすように。ゆっくり、でも。。なんだか永遠のような時間。

 

 おじいちゃんのお気にいりのコップを少女が私に渡す。祖母が生存してときに一緒に買ったコップらしい。少女と一緒に寝床に向かう。まったく気配がない。声をかける。かなりの時間がたち山がゆっくり動く。針金のように細い腕そのわりに大きなささくれだった手がコップをつかむ。少女はその姿を見る、たくさんの感情が交じり合った目で見る。

 

 立ち上がり、ゆっくり襖を開ける。広く長く寂しい廊下を歩きながら、帰って焙煎しようと思った。なにを焼こうか。廊下は永遠に続くような気がした。