ひとつとして良いアドバイスを私は出来ない

 50年も生きていると人から相談を持ち掛けられるときがある。そしてそのたび相談者をがっかりさせてしまう。私は誰かに語るべき言葉など持ち合わせていないのだ。

 実に薄っぺらい人生を送っている。謙遜で言っているわけではなく、気がつくと50年生きていただけの人。失敗ばかりしているし、決断はほぼほぼ間違っている。それでも生きていられるのは運がいいからかもしれない。とはいえ、すごく幸運なことがあったなんてことは一度もない。

 

 先日もコーヒーロースターになりたいという若者の話を聞いていた。会社をやめてコーヒー屋をはじめたいんです。庄野さんの本を読んで希望をもらいました。そうキラキラした目で私に言う。だけど、私が言ったことは、やりたければやればいい。なんだこれだよ。明らかに若者はがっかりしていた。きっと希望にあふれてやってきてくれたのだろう。背中を押してくれると思ったのかもしれない。

 だけど、私は誰かの背中を押すことはしない。

 

 みんなに勇気をあたえたい。っていう人を見ると凄いなあと感心する。常にビクビクしながら生きてきた私には考えられない言葉。希望ある未来を!なんていう人もいる。凄いなあ、本当に、嫌みでも皮肉でもなくそう思う。そしてそういう人がいない困る。自分で力を生み出せない人だっているんだ。そう、私もどちらかというとそっち。追い込まれてどうしようもないなってからでないと何もできない性格。負荷が掛からないと動けない。勇気や希望なんて私の辞書には載っていないみたい。

 

 ネガティブなこと書いているように思うんだけど、本当のことだから仕方がない。ブログは正直なことを書こうと決めている。誰かと話したり、きちんとした文章を書こうとすると、捏造する自分がいる。嘘とまでは言わないがニュアンスを変えたり、強弱をつけたりする。そしてそのことを自分は知っているから、あとで落ち込む。

 ブログは自問自答、自分に書いている。書いているうちに、そうか私はこんなこと考えてるんだって思うときもあれば、おいおい、自分に書いているのに捏造しようとしているぞと突っ込んだりしているときもある。

 

 毎日書いていると書くことがないときもある。家と店にしかいない毎日、書くことがあるほうが変だ。そんなときは書くことがないと書く。読んだ本や聴いた音楽のこと、聴いたニュースのことを書く。自分の思っていることを正直に書く。全然違う考え方の人が見るたヤだろうな、なんてことは考えず正直に書く。こんな人がコーヒーを作ってるだって知ってもらうために書く。

 

 正直であることが一番強いと嘘つきな私は知っている。

 

 かなり話が逸れたし、長くなりました。何が言いたいかというとタイトル通り、ひとつとして良いアドバイスを私は出来ない、です。だけど、聞くことは出来る。ひとりで困ったら訪ねてきてください。アドバイスは出来ないけれど雑談は得意です。