マンデリン

 そろそろ閉店時刻が近づき今夜は何で喉を開こうかと考えていると重い扉がガタガタし細い西日が差し込んできた。ガタガタ、ガタガタ、ガタ、ガタ、ガ、ガ。音はするが誰も入ってこない。私は立ち上がり扉に向かい、ガタガタしている扉を引っ張った。あっという小さな声。扉の向こうに幼い女の子がひとり立っていた。

 

「おじいちゃんが病気でずっと寝てるの。一度でいいからここのコーヒー屋さんのマスターがいれてくれたコーヒーを飲みたかったって」

「そうなんだ。家は近くなの」

「うん、すぐ、そこ」

「じゃあ、今度の休みの日にコーヒー淹れに行ってあげるよ」

「ほんと?いつ、やすみ?」

「日曜」

「うーん、にちようか。。。」少女は少し俯き考える。

なんだか都合が悪そうだ。祖父のために来てもらいたいけれど、日曜日は具合が悪い。そういうことだろうか。それならば、

「月曜も休みだから月曜に行こうか?」

少女の表情が喜びに溢れた。

 

  予想していたより、いやある意味予想どおりなのか、こんな近くにこんな屋敷があったんだ、門前で屋敷を(見えてないけれど)思い見上げてそんなことを思った。インターホンを鳴らそうかと思うと門が開いた。少女がいた。どうやら待っていてくれたみたい。白く小さく黒い長い髪に丸い眼鏡。くるりと回り歩きだした少女に続いて歩いた。

 がらーんとした玄関。上履きはない。よく磨かれた長い廊下を無言で少女の後を歩く。永遠に続くような気がした。

  少女が襖を開ける。寝床が見えた。小さな山。少女が近づき何か話かける。山が動いた。うつろな目のこれ以上やせ細れない針金よりも細い物体が私に向いた。

 

 誰だ、お前。

 

 はじめて見る人だった。少なくとも店頭でこの老人を見たことはない。そして、この家の人は店に来たことがない。日曜日が休みの仕事をしている両親(もしくは片親)だというのは先日の少女の態度でわかっている。この住所に配送の手配をしたこともない。

 

 ありがと、と、う。

 

 老人が言った。少女はにっこりとした。

お湯を沸かす場所を聞いて台所へ向かう。古い薬缶に水を張りガスコンロを中火にする。時間をかけて湯を沸かす。できるだけ柔らかいお湯になるように。湯が沸くのを待つ間、あらかじめ手持ちしたどのコーヒーを淹れるべきか考えた。酸味のあるコーヒーが好きなのか苦みや重みを好むのか。私の知らないコーヒーを好きな人にどのコーヒーがいいのだろうか。もしかしたら、彼の最後のコーヒーかもしれない。

 

 シュシュ、シュシュ、シュシュ

 

規則正しく湯が沸く音がする。決めた。少女を呼ぶ。

「おじーちゃんが飲んでいたコーヒーってどこにある?」

 

彼女が食器棚の下部に押し込まれていたコーヒーを見つけるのに結構な時間を要した。とはいえ、時間はありあまるほどある。ただコーヒーを淹れ飲んでもらえばいいだけなのだ。そう思い持参した手挽きのミルを手提げから出した。何年振りかに昨夜手入した古いコーヒーミル。

 

 見たこともないコーヒ―袋からコーヒーをミルに入れる。軽く回す。あまり香りは立ち上がらない。いつごろ購入したコーヒーなのだろう。とにかく湯を沸騰さす。世界を煮出すくらいの沸騰。その湯でも膨らまない。できるだけゆっくり、息ができないコーヒーを甦らすように。ゆっくり、でも。。なんだか永遠のような時間。

 

 おじいちゃんのお気にいりのコップを少女が私に渡す。祖母が生存してときに一緒に買ったコップらしい。少女と一緒に寝床に向かう。まったく気配がない。声をかける。かなりの時間がたち山がゆっくり動く。針金のように細い腕そのわりに大きなささくれだった手がコップをつかむ。少女はその姿を見る、たくさんの感情が交じり合った目で見る。

 

 立ち上がり、ゆっくり襖を開ける。広く長く寂しい廊下を歩きながら、帰って焙煎しようと思った。なにを焼こうか。廊下は永遠に続くような気がした。