読書について

 基本、本は捨てない。とはいえ、結婚したとき狭いアパート住まいになったから、かなり処分した。7年前、家を建て引っ越した。そのとき、ほとんどの本を処分し、その後は出来るだけ買わないようにした(もちろん、妻の目を意識してです、はい。そんなに本いるの?読んだ本でしょ!って無言の圧を感じ。。。)。引っ越し直後は、そうしていたのだが、気がつくと本を買っている。以前、処分した本も再度(再再度の本もいっぱいある)買っている。そして密かに心に誓った。もう、本を処分するのはやめようって(もちろん妻には内緒)

 

 たくさんの数の本を読めばいいと思っていた。新しい物語や情報を得ることが、読書の醍醐味だと信じてた。だから、とにかくたくさんの本を読んだ。そのおかげで、自分の中にたくさんの大切なもの(そうでもないものもたくさん)が、知らずらずのうちに蓄積されている。

 だけど50歳にもなると自分の人生の残り時間を意識するようになる。そして気付く。この世にある本のほとんどを読むことは出来ないんだって。そして、新しいものをなんとなく惰性で日々読んでる自分に気付く。自分で選んだ好きな本を読んでるのでなく、誰かが褒めた本や話題になっている本を読んでいることがある日、イヤになった。

 

 読書なんて、もっと個人的なものじゃないのかしら。

 

 『コーヒーと小説』『コーヒーと随筆』という選書2冊を作るために、たくさんの小説や随筆を読み直した。そのとき、いろんな発見があった。一番大きかったのは、いいものはいつでもいいということ。あまりにありきたりのことを言って申し訳ないのだけれど、本当にそうなんだから仕方がない。

 新しいものは時間が経つと古くなり、読んでいると痛々しい気持になった(庄野個人の感想です)。だけど、いいものは、30年前読んだときよりずっと良くなってた。もちろん自分が歳をとったってこともあるんだろうけれど、いいものは時代を経ることによって、さらによくなっている、そんな気がした。

 って、書いてあることは同じなんだからそんなわけねーじゃん、って声が聞こえるけれど、本当なんだから仕方がない。きっと読書の神様ってのがいて、残るべき作品には魔法をかけているんだと思う、マジで。

 

 最近は、好きだった作家の自分が以前読んで苦手だった作品を読んでいる。そうすると、あれ、こんなに面白かったんだって思う作品もあれば、あいかわらず苦手なままの作品もある。それでいいと思う。また何年かして読んでみようと心に決めて本をおく。

 同じように、好きだった作家の好きだった作品も読む。あれ、こんな話だったっけ。覚えていることもあれば、全然覚えてないとこもある。これも何年か後に読む。

 

 残り時間が限られているから、今まで読んできた好きな人の作品だけでもう充分すぎるような気がする。若いときのような体力もないから、読書の速度も遅くなっている。これからたくさんの量を読むことはできないだろう。

 ゆっくり読む。これからも私の読書はそうなる。そして、それは、いままでの自分には無かった読書の仕方だ。

 

 マルケス安吾を全部読むだけで5年はかかるような気がする。5年後、また、はじめからマルケス安吾を読み直す。読み直すたび、何かを発見するかもしれないし、自分が失ったものを知るかもしれない。

 そうこうしているうちに人生は終わる。

 

 読書なんて生きる意味と同じ、死ぬまでの暇つぶし、意味などない。

 だから自分の好きなものを何度も何度も読むことにする。

 

 本も増えないから、妻にも怒られない、いいアイデアでしょ(笑