自分の好きなものとキチンと向き合うのだ

  正月が苦手だ。

まず、餅が苦手、ということは雑煮も苦手。おせち料理も苦手。年賀状はずっと書いてないからこないし、妻に初もうでに行かないと言われるし、無神論者だし、人ごみ苦手だし。福袋とか余った在庫入れてるだけだろって思うくらい捻くれているし、なんか正月料金って変に高いし。

 なんて書き始めて、おい待てよ、ならばあんた(私のこと)得意なものはあるのかい?って問いかけてみると、案の定なんにも浮かばない。それをやれば、そのときがくれば、時を忘れるくらい一心不乱になる、そんなことがない。もしかしたら人生で一度もないかもしれない。そう、なにかに心奪われるということが、ない。

 

 間違わないように生きてきたような気がする。だけど、なぜか失敗ばかり、成功したこともなければ褒められたこともない。でもね、なにかを買うと説明書を最初から熟読するし(電気製品のコンセントを入れましょうから読んでます)、なにか知らないことをはじめるときはルールを覚えようとする。それが普通だと思ってたんだけど、妻と暮らすようになって驚いた。説明書などこの世界には存在しないかのように取りあえずいろんなところを触る触る。でもって、思ったようにいかないと考えて(なぜここで説明書を見ないのかと私は思うわけです)、また触る。なにをやるにもそれ、とりあえずやってみる。で、いつも私よりなんでも出来るようになるし、なにより楽しそうだ。

 

 そう、考えると失敗は一対で、その向こうに楽しいはあるのかもしれない。

 

 妻は、検索もしない。あまりテレビも見ないし新聞も読まない。ネットを見ていることも少ないようだ。私に比べると圧倒的に情報量が少ないような気がする。そう思ってたんだけだ、そんなことは全然ない。子どもたちの世界のことも、14gなど店で会う人とのコミュニケーションで、引きこもっている私に比べると生きた情報をたくさん持っている。私の持っている情報など、あってもなくてもどうでもいい、誰かの情報なのだ。

 

 せっかく年も変わったことだし、今年は、あまり情報を入れるのをやめようと決めた。今ある手持ちの情報で、いろいろ考えて表現していきたい。って、よく考えたら、コーヒーだけはそうだ。14年以上、おなじ銘柄のコーヒーを同じ焙煎機で焙煎している。コーヒーの展示会にも産地にも行かず、団体にも属さず、ただただ同じように毎日焙煎している。情報は目の前のコーヒーだけ。

 本が読みたくなったら本屋へ行って自分の読みたい本を買おう。

 音楽が聞きたくなったらレコード屋へ行って自分が聞きたい音楽を買おう。

 

 誰かの情報や好みではなく、自分の好きなものとキチンと向き合うのだ。