自分を変える必要なんてない、のかもしれない

 今年から12月23日が祝日ではなくなった。この日は息子の誕生日。生まれてからずっと祝日だった誕生日が突然平日になった彼はどんな気持だったんだろう。終業式だったから学校にも行った。人生ではじめて誕生日に登校したわけだ。どんな感じだったんだろう?

 14年しか生きていない彼だけど、50年も生きている私が経験したことのないことを、たくさん経験している。だから、子どもが大人と違うものだとは思わない。決して上からなにかを言うのは出来るだけやめたいと思っている。でも、言っちゃうんだよなあ。どこかで、自分が経験してきたことがアドバンテージになっていると思ってるんだろうな。でも本当は、子どもたちの経験値が上位な時だってあるに違いない。

 大人になる、それは、想像力を少しずつ失くしていくことなのかもしれない。

 

 娘は、進学校で特別クラス(なんだこの名前)で成績がいい。部活もやって、塾へも自らすすんで行っている。それを見てるからだろう、息子も塾へ行っている。ピアノ教室にも通っている。ソフトボール部でキャプテンやって、テニスの大会の助っ人に呼ばれ、吹奏楽部にいたからコルネットが吹けて楽譜が読める。娘もそうだ。コルネットとフルートが吹ける。英検も2級だかなんだかを持っている。

 なーんにも、ないよ、50歳の私。

 

 そんな子供たちに、あーしろこーしろ、だなんて言えない。進路の相談をされても、自分で考えて好きなようにしなさい、としか言えない。私に出来ることは、こんなことやりたいんだけどって言われたとき、金銭的なことで断念させないようにするために働いてお金を稼ぐことだけ。お金に興味はないし、価値があると思っていないのだけれど(あくまで媒介だと思ってます)、大切なものだとは思っている。好むと好まざるとお金で回っている社会に生きている限りは否定できないし、否定するのもカッコ悪いなあと。誰かのために一生懸命働くっていうのが、私が生きる理由になるっていうのもある。

 なーんにも、ないんだよ、やりたいことなんて私。

 

 こんなポンコツでも生きていく理由をくれた子どもたちには感謝している。どんな人生をおくるんだろうねふたり、がんばれよー。

 って、まったく興味ないんだ。ふたりがどんな人生を送ろうと。それは、彼女彼らが考えて選んでいくこと。ならば、それらすべてをとーちゃんは肯定するよ。たとえ、社会が間違っているって言ったとしても私はいつもあなたたちの側に立つ。違法行為はダメだけどね。

 

 こんなこと書くつもりじゃなかったんだけど、まあいいか。なにかを書かないといけないわけじゃないし、このブログを読んでくれている人なんて数少ない庄野マニアだと思うし(笑 感謝しています、読んでくださって。なんかねえ、いろいろ考えるんです。そして自分が送ってきた人生があまりに薄っぺらくて恥ずかしいことばかりだったなと。そしてこれからも、きっとずっと、このままなんだろうなって。恥ずかしくて眠れない夜もあります。

 

 でもね、クラスメイトに学校で「誕生日おめでとう!」って言われたことがなかった人生が、ある日突然言われるくらい簡単に世界は変わることもあるんだ。だからさ、とにかく生きていこう。理由なんていらない。夢や希望もいらない。ただ、今いる場所で、やるべきことを坦々と。そしたらそのうち、風景は変わっているかも。

 

 そう、自分を変える必要なんてない、のかもしれない。