太宰治にはなれない

 坂口安吾が好きだ。そういうと当然のように太宰治好きですよね、と言われる。無頼派というカテゴリに入っているらしい二人とも。一体、無頼派って何だ?

 

 加藤典洋『太宰と井伏』を読む。どちらもすごく好きというわけではないが、日本の文学史上もっとも文章の上手な二人だと思っている。ともに天才だ。いや、ともにすごい努力を重ねたのかもしれない。いや、ともに口述筆記が得意らしいから、ただの天才。いや、円朝の直系なのかもしれない。

 

 私は弱い。心も体も。って、体は最近贅肉のおかげで健常に見える。心は外からはわからないもんね(私の文章を見ている人は病み具合にはなれてますよね)。お金持ちの家系でもなく、男前でモテるでもなく、時代の寵児になる文才もない私は、ただただ太宰の生き方を読んで(後追いしかできない)すごいなあと思うしかない。

 

 誰かをすごいなあと思った瞬間、その人にはなれない。

 

 憧れがあれば、近付こうと努力をする、かもしれない。

 バカにすれば、近付けると真似をする、かもしれない

 どちらでもなく、なんだこの人って思うとなんにも出来ずに、遠くから見ていることしか出来ない。

 

 会社員の家庭に生まれ、普通の進学校に行き、私立大学を出て、会社員になり、そこから逸脱したと思ったらコーヒーロースター。あまりおもしろくもないし、インテリジェンスもない。そんな人だから壊れた人に憧れる。

 

 太宰は完璧だ。才能とカッコ悪さのバランスがちょうどいい。名前にも現れている。治って。ダサいよね。でもこれが、太宰って姓ならばかっこよくなる、不思議。って、そもそも、津島修治だっけ。修めるはどこにいったんだ?

 

 そんなことはどうでもよく、太宰の話。

 自殺するのは是としよう(しないほうがいいけどね)。でも、心中はよくない。死は個人的なもの、それを誰かと共有するのは美学に反する。ゆえに、三島由紀夫の作品が苦手。最後はひとりだろ、太宰。

 

 不倫をした芸能人が罪悪人のように断罪される世の中で、太宰は巨匠であり、憧れの人であったりする。なんだかなと思うけれど、私は太宰にはなれない。芥川賞をもらえないくらいであんなに感情的になれないし、変なクスリに依存したり、あんなに女性にもてたりしない。

 

 太宰にはなれないし、安吾にもなれない。ふたり以外にはなりたくない。小説を書いていくと決めたけれど、経営のためにヘイト本を出すような出版社からは絶対本を出すことは無い。太宰も安吾も出していただろう、今生きていたならば。書くことで生きていくとはそういうことも飲みこんでいかなければならないんだ、きっと。

 

 私は、彼らのようにしぶとくない。そしてなにより、文章で生きていこうなんて矜持もない。私はコーヒーで生きていく。だから、彼らより純粋に文章を書ける、と自惚れている。

 

 問題は、純粋だから良い文章だなんてことは無いってこと。

良い文章を書ける天賦の才がないゆえ、私は一生、太宰治にはなれやしない。