「フェ」が言えない男

 会社員時代、同僚に「庄野さん、カフェって言ってみて」と言われ、「カフェ」と言ったらまわりにいた人たちに笑われた。あれ、イントネーションがおかしいのかしらと思ったんだけれど、どうやら違うみたい。理由をたずねると、私は「フェ」を「へ」と言ってるらしい。「パフェ」は「パへ」、「フェス」は「ヘス」、「フェイスブック」は「ヘイスブック」、「フェロモン」は「ヘロモン」(この言葉は人生で一度も発したことがありません。盛りました)、とにかく「フェ」が言えない男なのだ。

 

 30歳半ばだったと思う。結婚もしていたし子供もいた。少ないながらも友人もいた。だけど、誰もそれを指摘してくれなかった。それでも。どうやら私は生まれてからずっと「フェ」が言えない男だったのは間違いないみたい。もしかしたら「あいつ、フェが言えないんだぜ」って陰口を言われていたのかもしれないが、だからと言ってそれで困ったことはないし、陰で言われていても自分は知らないから、全然問題ない。だけど、それを言ってくれた同僚には感謝している。大人になって、自分の知らないことを教えてくれる人は貴重だ。

 それ以来、できるだけ「フェ」をいう言葉を回避するように暮らしている。「カフェ」は「喫茶」、「パフェ」は使うことがないし、「フェス」は「フジロック」とか「ライジング」とか具体的に、「フェイスブックス」よりは「ツイッター」(なんか意味が違うような気が)。自覚していれば危険は回避されるのだ。

 

 矯正が嫌いだ。自然に言えないんだから、無理して言えるようにならなくていいと思っている。とはいえ、社会に属している以上、話相手に理解してもらえる言葉を使わなければならない。それならば言い方を変えてしまおう、という選択をするのが私のやり口。そう、困難や努力からは全力で逃げるのだ。だって、これは自分の持って生まれたものだから、世間にあわせて本来変えなくていいものじゃない?、と心のどこかで思っているフシがある。そう「カヘ」でいいじゃんって思っているんだ本当は。「前後の文脈でわかるだろ」、と心の中では強気でも、やっぱり、「あれ庄野ってオーガニックカヘって言ってない?」、って言われているような気がするから、自然と言葉を飲み込んでしまう自分がいる。

 そう、私はもう自分が「フェ」と言えないって知ってしまった男なのだ。

 

 子供の時はよかった。知らないことばかりで、世界はキラキラしていた。そして、感情の種類も少ないぶん、純粋だった。年をとると知らないことは減ってきて(大いなる勘違いなんだけれど)、邪悪なものが自分の中に忍び込んでくる。それが悪いわけではないけれど(毒を体に入れておかなければ社会で生きていくのは大変だ)、少し悲しい。

 その上、インターネットのせいで(あえておかげでとは言わない)世界がだんだん平たくなっていく。平たくなり今まで見えてなかったものが見えるようになり、それで心を痛めることが多くなる場合が増えた。もちろん、うれしいことも増えた。だからイーブン、いいことも悪いことも、いつだって同じ分量なのだ。

 

 昔はよかった、って言ってるのではない。ただ、今のほうが、悲しみの容量は大きいし、よろこぶための理由もたくさん必要だから(本来よろこびに理由なんかいらないはず)、心も体も疲れる。いろんなものが進化し、便利になればなるほど、人は忙しくなり疲弊していくのだ。なんだかなあと思うのだけれど、そんなものなんだから、仕方がない。

 

 だから、たまには「カヘ」にでも言ってお茶でもしませんか。やれやれ。